宮司よりひとこと

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慈悲の神様と枚岡神社【更新日】平成27年12月11日

ユーラシアの各地からやって来た私たちの祖先は、互いの文化を共有しあいました。1500年前に仏教が伝来した時にも、仏教の深い生きる智慧を積極的に学ぼうとしました。あらゆる自然の中に神々が宿る、という神道の教えを取り入れ、「悉皆仏性」を説いて、日本の心と融合し、神仏習合が広がって行きました。寺の中に神が、社の中に仏が、家庭の中に神棚と仏壇がごく自然に祀られるという、世界でも稀なる調和の取れた国となったのです。

枚岡神社の第一殿・天児屋根命は地蔵菩薩、第二殿・比売御神は十一面観音、第三殿・経津主命は薬師如来、第四殿・武甕槌命は釈迦如来又は不空絹索観音として信仰されました。地蔵菩薩はこの世で一人残らず救うまでは、最高の位である如来にはならないと誓っており、慈悲の仏様として広く人々から敬慕されました。慈悲の慈とは、厳しい愛情、悲は優しい愛情と言われています。優しい愛情だけでは、火の中の子供を救うことが出来ません。時には、火も恐れぬ厳しい愛情が必要となるのです。

人は愚かですから、いくらさとしても過ちを繰り返し、とうとう地獄の一丁目まで来た時に、「あれほど言ったのに」、と形相を変えて説教しているのが閻魔大王です。両者は慈と悲を形に表した、同一仏と言われています。枚岡の主祭神は地蔵菩薩としても信仰され、慈悲の仏さまなので、慈悲の神様と称えられてきたのです。「己を忘れ他を利する、これ慈悲の心なり」、と言われた伝教大師のお言葉が、今の世に、もっと広がって行かなければなりません。「他のために」は損なように思えるのですが、実は一番大事な、内なる魂を磨いていることになるのです。

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神無月と出雲の神迎え(2)【更新日】平成27年11月6日

大国さまは目に見えない神事を取り仕切っているので、年に一回神々が出雲に集まり、大国さまを中心として、目に見えない人々のご縁を相談します。それゆえ大国さまは縁結びの神と称えられてきました。縁結びといえば男女の縁だけを考えがちですが、男女だけではなく、この世の全てのご縁を神々が相談されるのです。

旧暦10月10日(平成27年は11月21日)の夜、神代の昔、国譲りの談判が行われた出雲の稲佐の浜で、神迎えの神事が斎行されます。神職が海に向かって祝詞をあげ、全国の神々をお迎えします。この時期になると、日本海の荒波に乗って、よく海蛇が打ち上げられます。これを竜蛇神(りゅうじゃしん)と称し、全国から集まる神々と見立てて、神職が恭しくこれをささげ、出雲大社まで1,5キロの道のりを渡御します。出雲大社の境内の東西には、十九社という細長い建物があって、ここが全国の神々のお宿となるのです。翌日から一週間、神在祭(かみありさい)がとり行われ、この間神々は見えない人々のご縁を相談されるのです。

出雲ではこの期間、全国から神々が来られているので、会議の邪魔にならないよう、歌舞音曲を控える風習があります。7日間の会議の最終日に、神々をお送りする神去祭(からさでさい)を斎行して、出雲の神在祭がすべて終了します。

6月は田に水を蓄える月なので「水の月」、これを「水無月(みなづき)」と言っています。同じように、10月は秋の祭りが全国で行われるので「神の月」、これを「神無月(かんなづき)」と言っており、神が居ないという意味ではない、とも言われています。

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神無月と出雲の神迎え(1)【更新日】平成27年10月1日

10月の「神無月(かんなづき)」を、出雲では「神在月(かみありづき)」と呼んでいます。全国の神々が、大国さまのお膝元に集まって、会議をするからです。

乱暴狼藉によって、高天の原を追いやられたスサノオノミコトは、出雲にやって来てヤマタノオロチを退治したり、わが子のイタケルノミコトを通じて植林に励み、日ノ本の国を豊かな森の国にしました。その流れをくむ大国主神は、国土を開拓し、農業や鉱業、さらに医薬を広め、人々のために幸せを与えた偉大な神さまです。また兄弟の神々から無理難題を押しつけられ、艱難辛苦を乗り越えたので、大きな袋を背負って描かれ、因幡の白兎を助けた心の優しい神さまとして、人々から敬愛されています。多方面に力を発揮されたので、大穴牟遅神(おおなむち)、大物主神(おおものぬし)、八千矛神(やちほこ)、宇都志国玉神(うつしくにたま)、葦原色許男神(あしはらしこお)、所造天下大神(あめのしたつくらしし)の別名があり、総称して大国(だいこく)さまと親しまれているのです。

神話の国譲りの段では、大国主神は天照大神に、自分の治めていた国土を譲る条件と 立派な御殿が造られました。東大寺の大仏殿より高い、48mの巨大な神殿が造営されたのです。これとは別にもう一つの契約が取り交わされています。天つ神(天照大神)の子孫は、顕露事(あらはにごと=見える世界の政事)を担当し、国つ神の大国主神は幽(かく)れた神事(かみごと=見えない世界)を分担することを確認しあっているのです。この世は目に見えない不思議な世界で、大国さまがこれを取り仕切っているのです。

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鳥居とダ太鼓【更新日】平成27年8月31日

神社の入り口には必ず鳥居が立っています。神居ます聖なる世界と、俗界との結界の役目をしています。鳥居をくぐる時には、軽く会釈をするのが礼儀です。入り口にあるのが一の鳥居、参道を進むにつれて二の鳥居、三の鳥居となり、鳥居をくぐるごとに、奥深い神聖な神様に近づいて行くのです。なぜ「とりい」と名づけられたのでしょうか。

揚子江流域は8000年の文明を有し、照葉樹林文化をベースに稲作文化が栄え、やがて海を渡って日本にたどり着くのです。その流域の西南部は今も稲作が盛んで、山間地域に暮らしている苗族(ミャオ族)の部落には、家々に蘆笙柱(ろしょうばしら)が空高く立っていて、最先端には真東を向いて太陽を呼び出す鶏または鳳凰がのっています。そして雨をもたらす水神である水牛の角が柱の中ほどに、同じく龍が柱に巻きついています。水は農耕に欠かせず、その人々の願いを、鳥が天の神様に伝えてくれる、と言う信仰がこのような形で今も残っているのです。

このような文化が、1400年前にわが国に伝えられた雅楽の一対のダ太鼓(大太鼓)にも窺えます。その鼓面には水を現す巴が描かれ、一方の火焔には龍が、いま一方には鳳凰がかたどられ、両者のてっぺんには、日輪と月輪がついています。人々が音楽や舞踊を通じて、農耕に欠かせない水を願ったのです。このように大陸の文化がわが国に入り、ダ太鼓や鳥居という形に変化したのでしょう。因みに神様との垂直の交信に用いられたのがハシラ(柱)、水平方向がハシ(橋)、命を戴く食物の摂取にはハシ(箸)と言うように、ハシという言葉には、見えない神秘とつながっているのです。

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食事のマナー【更新日】平成27年7月31日

日本人は贅沢になりすぎて、感謝の心が希薄になりました。三度の食事も当たり前で、感謝の心がありません。食べ物は自然の恵みや、多くの人の手によって口に入るのですから、感謝して頂戴するのが、人として当然の礼儀です。これが失われてきたのは、戦後の徳育を抜きにした教育と、家庭での躾が、幼児の時からなされていないからでしょう。

伊勢の神宮で、神職の研修がよく行われます。その際の食前食後の作法は、先ず正座をし、一拝一拍手をしてから、頂戴します。手を合わすだけでも美しい作法なのに、どうして神社では一拝一拍手をするのでしょう。『日本書紀』に、第21代雄略天皇が葛城へ狩りに行くと、向こうから天皇と同じような立派な一行がやってきます。不審に思って尋ねたところ、「我は葛城の一事主大神なり」と応えたので、天皇は恐縮し、自分の剣を献上しました。すると大神は喜んで手を打って受けた、とあります。この古事からわが国では、古くから一拝一拍手をしています。拝礼は食物がいただける感謝と喜びのタテの表現で、拍手はヨコの表現です。このタテとヨコの作法がワンセットで行われているのが、わが国の食事のマナーなのです。仏教が広がって、手を合わす作法が定着していますが、本来は一拝一拍手が日本の麗しい作法です。

因みに神職が研修の時に行っている一拝一拍手の後に、食前には、「たなつもの(穀物)百(もも)の木草もあまてらす日の大神のめぐみえてこそ<いただきます>」、と言って頂戴し、食後には「朝よいに物くうごとに豊受けの神のめぐみを思へ世の人<ごちそうさま>」と言って食事を終えます。いずれも本居宣長の和歌です。

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懺悔懺悔六根清浄【更新日】平成27年7月1日

今年もお山開きが行われ、全国から大勢の善男善女が入山しています。生きとし生けるものは、土や水や太陽や目に見えない空気の力によって生かされています。土はハニヤスヒメ、水はミズハノメ、草はカヤノヒメ、火はカグツチ、空気はシナヅヒコ、日の光はアマテラスといったように、私たちを生かしてくれる不思議な大いなる力に、神様の名前をつけて、敬虔な気持ちで感謝してきました。あらゆるものに神様の名をつけて、感謝と祈りをささげてきたので、八百万(やおよろず)という、たくさんの神様が生まれたのです。

朝日や夕日にも手を合わせてきた、先人の次元の高さに、只々驚くばかりです。自然の中に神々が宿り、その自然が豊かな山や杜は、神々の聖なる領域です。豊かなお山に入ると、そこここに清水が湧いており、清らかな川のせせらぎが日の光に輝いています。お山は命の水を生み出してくれる大事な場所で、まさしく神様のお山なのです。

富士山、御嶽山、羽黒山、白山、大峰山、石槌山といったお山のほかにも、信仰の対照となっているお山は、全国津々浦々にあります。神様のお山に入るのに、「懺悔懺悔六根清浄(さんげさんげろっこんしょうじょう)」と唱えながら巡ります。六根とは目、耳、口、鼻、身、心のこと。「懺悔」(ざんげ)は一般的な軽い反省。これを濁らず「さんげ」と読むと、神仏に魂の奥底から深く反省している意味があるのです。日頃の悪い想念や行動を悔い改め、魂の奥底から反省することによって、六根、すなわち心身が清らかになり、第六感が芽生え、神聖なお山の神々様が身近に感じられるようになるのです。

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大祓式(おおはらえしき)【更新日】平成27年6月1日

太古の昔、私たちの祖先は、自然の不思議な働きの中に神様を感じ、感謝と祈りをささげてまいりました。家庭には神棚を祀り、氏神様とともに生活をする中で、海や川に入って禊(みそぎ)や斎戒沐浴をして、常に心身を清めようとしました。日本人の風呂好きは、このような習慣からきているのでしょう。大祓の神事は太古から行われており、常に心身ともに清らかになろうとする先人の願いが、神事という形で伝わっているのです。三度三度の食事を考えてみても、私たちは他の多くの命を戴き、その命の犠牲のもとに生かされています。また路傍の草や虫を踏みつけて、殺生をしていることもあるでしょう。

大祓式は私たちが知らず知らずに犯している罪や穢れを祓うために、全国の神社で一年に2回斎行しています。中元と歳暮、二礼二拍手というように、二度重ねることが日本人の丁寧さの表現です。6月30日は「夏越の祓(なごしのはらえ)」と言って、半年間の罪穢れを祓って、後半を新しい気持ちで出発いたします。12月31日は「年越しの祓(としこしのはらえ)」と言って、新年を迎えるにあたって、旧年の罪穢れを一掃いたします。

儀式の中で神職が木綿(ゆう)と麻(あさ)の二枚の布を八張りに取り裂くのは、神代の昔、スサノオノ命が高天の原で罪を犯し、その代償としてさしだした贖(あがな)い物です。また人々の罪穢れを託した人形(ひとがた)は、大麻(おおぬさ)でお祓いをして川に流します。これはイザナギノ命が、亡くなったイザナミノ命のいる黄泉(よみ)の国を尋ねて、心身が穢れたために禊をし、水の霊力によって力を得た古事によるものです。

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祭りの作法とおもてなし【更新日】平成27年4月28日

私たちは大いなるものによって生かされています。その喜びと感謝と祈りの姿が「祭り」となって表れ、その語源は、神様に「仕え奉(まつ)る」、お食事を「奉(たてまつ)る」からきています。神社では神様に新鮮で美味しい食事を献上し、美しい感謝と称賛の言葉をなげかけ、音楽や舞踊でみ心を和め、最高のおもてなしが出来るように心がけています。

神職の立ち居振る舞いもその一つで、神前中央は神様の道として出来るだけ横切るのを避け、御殿間近の階段の昇降は、神様に対して下位の足から一足ずつ足を揃えて運びます。これは神様の前で粗相をしないようにしているのです。歩行は神前に近づくとともに歩幅を小さくして速度をゆるめ、かしこみ謹みながら進みます。これも神様に対する敬意の表現なのです。敬礼の作法は、軽い会釈は15度、重い会釈は45度、祝詞奏上中は60度、最敬礼は90度と決まっていて、時処位によって使い分けています。目に見えない心を外に表現するにはどうしたらいいのでしょう。

例えば神前での拝礼で、90度腰を折るだけでは心が表れません。上体を伏す時には心をこめてゆっくりと、直す時にはやや早く緩急をつけます。さらに90度になった時に一呼吸(約3秒)止めて間を取り、これに目を活かして神様に注目し、神様と自分の内なる魂を繋げます。背筋を伸ばして凛とした姿勢に、角度や緩急、間合いや注目、これらを組み合わせて感謝の心をこめて動作をすると、見えない心の部分が外に現れて、美しい作法となります。この神様に対する「おもてなし」の作法が色いろな習い事や、企業にも取り入れられているのです。

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暦のはなし(2)【更新日】平成27年4月6日

江戸末期には450万部の暦が発行されていました。当時の人口は約3千万人。大家族であったので、全家庭に行き渡っていたことが窺われます。このようなことは世界に類がありません。大方の日本人が農耕にかかわり、暦とともに生活をしていたのです。

暦は円を描いた頂点が冬至(最も昼が短い)で、そこからタテに線を引いた円の底が夏至(最も昼が長い)です。冬至を「子(ね)の刻」(御前零時)とし、夏至を「午(うま)の刻」(正午)としました。ここから午より前の時間を午前、後を午後、そして「子午線」という言葉が生まれました。円の中央に横線を引くと、昼と夜の時間が均等になる、春分と秋分になります。この十字の間々に、立春、立夏、立秋、立冬があり、これらの前18日間が土用です。土用はうなぎを食べる夏だけではなく、春夏秋冬にあるのです。円の中の米の形を3等分ずつすると二十四節気、さらにこれを三等分ずつすると七十二候となり、季節の細やかな移ろいがわかるようになっています。

旧暦の正月は、立春の前後の一番近い新月(月が見えなくなる)の日で、今年は2月19日でした。新茶を摘み取る「八十八夜」や、台風の多い「二百十日」というのは、立春から数えます。旧暦は月の満ち欠けを中心とした暦で、毎月新月の日を月の初めとしています。月の満ちるにしたがって三日月、五日月、やがて十五夜の月となります。それから十六夜、立待月(17日)、居待月(18日)、寝待月(19日)、更待月(20日)と欠けてゆき、29か30日でその月が終わります。月の満ち欠けによって日がわかるわけです。

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暦のはなし(1)【更新日】平成27年3月10日

人類が穀物を栽培するようになったのは、今から1万2千年前といわれています。長い間、穀物を中心とした食生活を続けてきたので、歯の半分は臼歯になっています。大地を耕して穀物を作るには、大自然の営みが分からなくてはなりません。季節の移ろいを肌で感じ、太陽や月や星の運行によって自然の変化を察知してゆく中で、暦が生まれました。天体の動きに熟知した人が、「ひじり」(日知り・聖)なのです。明治5年に太陽太陰暦から太陽暦に変わりましたが、変わる以前のものを旧暦と言われるようになりました。近年これが自然にかなっていることから、人気が高まっています。

3月3日の「上巳の節句」は、水で邪気を祓うミソギの意味があります。雛人形は女子を邪気から守る身代わりとして飾られたもので、形代(人の形をした紙又は木肌)がその起源です。この日に飾る桃の花は、新暦では早すぎます。5月5日は「端午の節句」で、薬草である菖蒲を頭に巻いたり、菖蒲湯に浸かって邪気を祓います。五月をサツキとも読み、「サ」は稲の霊の意味。「サツキ」は、稲を植える雨の多い月の事。新暦では雨が少なく、菖蒲もまだ早いのです。7月7日は「七夕の節句」です。新暦の空は雨模様で、牽牛・織女の星が見えません。9月9日は「重陽の節句」で、酒に菊の花を浮かべて健康を祈りますが、菊の花は時期的にまだ早く、これらを旧暦に直して約ひと月遅らせると、全てがすんなり理解できるのです。以上のように奇数が重なる月は、芽出度い月として節句の祭がとり行われました。これらに1月7日の「人日の節句」を加えると五節句となります。

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建国記念の日を祝いましょう【更新日】平成27年2月10日

日本の文化はみな神話とつながっています。これを読むと 神日本磐礼彦命(かんやまといわれひこのみこと)が、日本の国を統治するのに、九州では辺鄙すぎる。大和は周りが山に囲まれて水が得られる。湿地帯で米作りに適している。生駒山の西側は、急斜面で外敵の侵入を防げる、等の理由から大和をめざします。九州から瀬戸内海を通り、河内の「青雲の白肩の津」(枚岡神社近辺の港)に上陸し、生駒山の暗がり峠から大和の国に入ろうとしました。ところが長髄彦(ながすねひこ)の強力な抵抗にあい、その地を引き上げ、紀伊半島を迂回し、熊野から吉野、宇陀を経て、橿原の地で建国し、初代神武天皇として即位されました。

それから数えて今年は2675年となります。西暦プラス660年が日本の紀元です。『日本書紀』には天皇が即位された日が「辛酉(かのととり)」と明記されており、これを新暦に直して、明治6年から2月11日を国家の祝日と定め、さらに昭和41年より「建国記念の日」となりました。

世界の君主国家を見ても2千年余も続いている国はありません。日本は突出し、しかも血筋が変わりなく続いているのです。国の中心が神聖であるということは、国民にとって幸せなことで、一旦国難が生じた時には、天皇陛下を中心に国民の心が統合されて、大きな力を発揮するのです。天皇さまは元旦の四方拝をはじめ、年間数多くの祭礼で、絶えず国民の平安と、世界の平和を神々に祈念されています。それに応えて国民は、いつまでも皇室が安泰でお栄えなるよう念じて、国歌「君が代」を歌うのは当然のことなのです。

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人生儀礼を通じて感謝と祈りの心を【更新日】平成27年1月6日

新年明けましておめでとうございます。

みなさん、初詣に行かれましたか。元日、枚岡神社では午前0時に、宮司が正月を知らせる初太鼓を打ち、これを合図に大勢の善男善女がお参りされました。午前6時から正月を寿いで歳旦祭を斎行し、皇室のご安泰と国民の幸せをお祈りいたしました。全国8万の神社はこの祭礼を皮切りに、年間数々の祭りの中で、常に氏子をはじめ国民の平安をお祈りしているのです。平素は神社の存在など眼中にない人でも、正月になれば、自然と初詣へと心が揺り動かされるのは、太古から祈り続けてきた祖先の遺伝子が働くからでしょう。

懐妊すれば無事に生まれてくることを祈り、生まれれば初宮詣をして神様に感謝をささげ、3歳5歳7歳になれば七五三詣をして、ひたすら子供の健やかな成長を願い、さらに結婚式には氏神さまに報告をして、末永い幸せを祈ります。また人生の節目節目に厄除けを願い、還暦(61)や古希(70)、喜寿(77)、傘寿(80)、米寿(88)、卆寿(90)、白寿(99)、上寿(100)というように、 日本人は数々の人生儀礼を重ねて、たえずお宮やお寺を通じて、感謝と祈りをささげてきました。これが日本の麗しい風習であり、文化でもあるのです。神社やお寺を通じて日本人の心の奥底に、感謝と祈りの心が自然と育まれ、目に見えない不思議な力を感じてきたのです。この麗しい日本の心を、子供たちに伝えて行かなくてはなりませんが、近年薄れつつあることは、残念でなりません。

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